原稿その9

(4)「道徳」と「社会科」
 ある研究会において「教科としての道徳」が議論になったことがある。講師は、「道徳が教科となることの問題性」を指摘し、「教科の中で道徳的要素を洗い出す」というやりかたを批判していたように思う。それを受けてある社会科教師が意見を言った。「社会科として道徳という問題はきちんと考えなくてはならない問題だと思います。もともと社会科は「人格の完成」という教育基本法の目標の中心的な科目として成立したはず。」私はハッとした。いつのまにか自分の頭の中で「社会科と道徳は別」という意識が出来上がっていたことに気がついたからである。もちろん、今政府が考えている道徳が適切なものであるかどうかは別に考えないといけないことである。ただ、社会科という教科は戦後「修身」を廃止したかわりに「平和と民主主義を尊重する生き方」に関わる教科としてかつ「すべての教科の土台となるべきもの」(1947年版学習指導要領執筆者重松鷹泰)として成立した経過がある。同年に施行された日本国憲法と教育基本法を背負って誕生した社会科なのである。その後1953年に道徳が設置され、社会科は他の教科と同列のものとして扱われるようになった。が、「初期社会科の理念を」と主張する人達の頭の中には「戦後民主主義の核」としての社会科に対する熱い思いがあり、私自身はそれを「継承すべきもの」と考えている。2008年8月、私は昨年の実践報告集に乗せた「鹿児島における特攻」の実践を歴史教育者協議会の中学歴史分科会で報告させてもらった。「貴重な実践」という意見をもらう一方、ひとりの人物から厳しい意見をもらった。「特攻の授業で大切なのは、やむにやまれぬ思いで突撃していった隊員の苦悩にどこまで迫れるかである。この実践ははたしてそこに迫ったといえるのか。」その人物は愛知大学を退職したばかりの安井俊夫であった。大学にて「特攻」の実践をしていた安井にとって私の実践はあまりに表面的であったのかもしれない。実は特攻の実践には別の批判があった。ネット上の意見であったが、雑誌に載った私の実践に向けられたもので「特攻の授業は中学教師では無理。どうにか高校からであろう。」というものであった。「中学生にあの極限の苦悩を理解するのは無理」という意味にとれた。意見の主は社会科教育界では有名な方であった。どちらにしても、「特攻隊」を扱う時に大切なのは「事実の経過」ではなくて、安井が言うように非情で不条理な「突撃」をせざるをえない隊員への「共感」であり、そこにどうやって迫れるかということであると理解した。社会科にとって大切なのはただ「科学的」であるだけでなく「人間の生き方」につながるものであるというひとつの証左であったように思う。
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by yksayyys | 2009-02-26 23:06 | 社会 | Comments(0)