桂園内閣の位置

明治後期から大正初期にかけて桂太郎内閣と西園寺公望内閣が交互に続く状態を「桂園内閣」と呼んでいるが、その状態を「安定期」と見なすことが多い。それまでの藩閥内閣と大正後期から昭和初期にかけての短い政党内閣といったい何が違ってどのような性格を持っていたのかが今回伊藤之雄の「元老」(中公新書)を読んで何となくわかった気がした。もっとも著者の考えがそうなのであってそれが定説となっているかどうかはわからないが・・・要するに藩閥内閣から政党内閣への過渡期における「緩衝期の政権交代」だったということである。そこには伊藤博文の戦略があったようである。明治期にいわゆる政党の「隈板内閣」において政党内閣は失敗した。やはり政権担当能力に欠けていたのであろう。伊藤は、いずれイギリスの政党内閣に近い形の政権が出来れば良いと考えてはいたようであるが、日本の実情から時期尚早と考えたようである。そこで、急進的でもない批判型でもない政党立憲政友会を自ら結成してそこで西園寺や原敬などの実務型政治家を育てることになる。そして、それと並行して山県有朋を頂点とした藩閥・官僚勢力との協調も行う。議会における政党と実務としての官僚が対立しないようにその間に枢密院や元老を配置して政治の混乱がおきないようにしたのである。それが、政党の代表西園寺と官僚の代表桂太郎の間でうまく連携できたということである。この時期は内閣が倒れる際に次期首相の推薦を元老ではなく、退いたばかりの桂や西園寺が「次は桂(あるいは西園寺)に」と直接天皇に奏上していたのである。枢密院、元老はあまり機能していなかったようである。のちの「憲政の常道」としての政党内閣とはだいぶ趣の異なる政権交代である。
 これを読んで思ったことは、今の自民党内閣はまさに桂内閣と西園寺内閣が合体したようなものではないかということである。官僚ともたれあった保守政党がその時代の政治を牛耳るというその役割は全く一緒ではないか。むしろ疑似政権交代のあった当時よりははるかに大政翼賛会的な政権になっていると思われる。
 もうひとつ共通するのは「野党への失望」がそういう状況を生み出しているということである。明治期にあれほど活況を呈した自由党が内紛続き・政権との癒着で国民の離反を招いた。どこかの政党とよく似ている。民進党は代表選だという。夢と希望は見いだせるのであろうか。
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by yksayyys | 2016-08-03 20:30 | 社会 | Comments(0)

ちょっとすねた感じでこの世を眺めてみると・・・


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