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アマノジャクはこう考える

「伝統」と「愛国」

 昨夜、カラオケボックスに足を運びながらプクプクさんが言いました。「近現代を語る会で私が学んだことは、愛国心というものを偏狭なナショナリズムとして一部の人達だけが声高に叫ぶようになったということだ。戦後すぐは左右とも民族とか愛国とかを考えていた。もう一度自分たちのものとして考えてみたい。」プクプクさんは、ある全国版の雑誌にそういう問題意識について文章を書く予定とのことである。5,6年前に扶桑社の「歴史教科書」が公開された時にUm先生が教科書のはじめにある伝統文化財の口絵を指さしながら、「この国の伝統というものを右の人達に取られてしまっている。」と言ったのを覚えている。「神話」や「伝統」といったものを和歌森太郎の目を通して検討したUm先生ならではの言葉であった。
 「伝統」や「愛国」という言葉が戦後ある時期から「反動的」「右翼的」なる言葉で進歩的陣営から敬遠されてきたように思える。それは、「民族」を唱えたスターリンの「偶像崩壊」によってもたらされたことが大きいと思えるが、「それで良かったのか」と考える。「自分の生きてきた郷土や風土、民族に根ざした伝統を尊重する」ということがそのままアベ首相の言うような「美しい国」に連想されてしまうことに大きな問題があるのではないだろうか。石母田正の「歴史と民族の発見」を読んでいると、共産党の山村工作隊に結びつく戦術だけではない「歴史家として地域に根ざした民衆の文化と伝統を大切にしようとした」心情は理解できる部分も少なくない。プクプクさんがどういう文章を書くかは今から大いに楽しみである。私は、正直言って「根無し草のコスモポリタン」であるが、「古事記」を「天皇制を基礎づける歴史書」として批判的に読むだけでなく「日本の伝統と日本人の心情を読み解く読み物」として理解したり、東大寺大仏殿を「権力者の権威の象徴」として見ながら「当時の日本あるいは東アジアの建築技術と仏教美術の粋」として見るくらいの心性は保持しているつもりである。この問題を考える時のカギは、「日本」という枠だけでなく「東アジア」「世界」という国際的な視点あるいは「日本の中の外国人(在日)」などの視点をいかに繰り込むことができるかではないかと思う。それが「偏狭なナショナリズム」から「伝統」と「愛国」を救い出す方法なのではないだろうか。とにかく、考えてみる意義はあるように思う。そういう意味で、「民主と愛国」に1章まるまる扱われている「竹内好」の存在はユニークである。久しぶりに「方法としてのアジア」を手にしてみたが、以前とは全然違う読み方ができたように思う。
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by yksayyys | 2007-06-10 21:40 | 社会 | Comments(0)