カテゴリ:社会( 1974 )

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 バスを降りるとずっとこういう狭い道を降りていきました。両側はずっとこういうお店が建ち並びおいしそうな匂いがたちこめていました。それにしてもすごい数の観光客でした。日本でもここまでの観光客のいるスポットはないのではないでしょうか。日本人もいっぱいいました。今思えばどっかで何か食べておけば良かったなと思いました。しかし、とにかく迷子になりそうで・・・・

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 観光地九份にも行きました。これは、その九份から遠く基隆を臨む光景です。同行したKさんは「以前も来たが、こんなにきれいに見えるのは初めてだ」と言っていました。遠くに見える港町が基隆(キールン)です。私はどこでどう覚えたのか「基隆=軍港」と記憶しています。知り合いの説明によれば、台湾の開発はここに上陸して始まったということでした。過去の支配者はそこから台北周辺に向かったということでしょうか。私たちはそのまま九份のかなり上の方までバスで登っていきました。

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 今回の楽生院訪問の記録を文章にすることになっています。それは今回のプロジェクト報告書ではありません。実は私東京の療養所の同人誌を定期購読しています。先日、事務的な用事で向こうの編集部とメールのやりとりをした際に「楽生院に行きます」と言ったところ、「私たちは行けませんのでぜひ訪問記を書いて下さい。」と言われました。「私たちは行けません」という言葉に感じるところがあり、引き受けることにしました。Um先生の許可もとってあります。感動の醒めやらないうちに、でもあわてずに文章を書こうと思います。写真は入所者住宅の間をMさんを先頭に歩くUm先生、闘龍灘さんの後ろ姿です。向こうに生い茂る植生はガジュマルなどの亜熱帯植物です。奄美の風景によく似ていると思いました。

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 恩師Um先生の旅の流儀は私に似ています。パックツアーなどの計画的・集団的旅行よりは「ひとりで出会いやトラブルを受け入れながらの旅行」を好むからです。鈍行列車やバスを使い、車窓の風景や庶民の喧噪を感じながらの旅が最高だと考えています。そして、Um先生は結構なグルメ志向です。いわゆるB級グルメにこだわりがあります。今回の楽生院調査旅行の仕上げは、このお店の肉麺を食べることでした。いかにも台湾の庶民向け食堂といった感じでしたが客はみんな同じものを注文して根気強く待っていました。そのメニューは肉麺でした。沖縄の「ソーキそば」に似ていると思いました。Um先生と闘龍灘さんは二日酔いをこの肉麺で吹き飛ばしたようでした。
 食を含めて、旅はいいものだと思います。

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 楽生院の旧管理棟は老朽化のため立ち入り禁止になっていました。Mさんが模型で表現した管理棟はもう朽ち果てていく運命にあるようです。その前に取り壊されてしまうのかもしれません。この楽生院のど真ん中を貫くように高速鉄道工事が進んでいるようです。それ対する反対運動もあり、日本の東本願寺派の支持団体のポスターもありました。支持団体の支援はかなり手厚いように感じました。日本のピースボートも大きな役割を果たしているように感じました。
 ただ、日本の療養所が「保存しよう」という動きにあるのに対し、この楽生院は「解体」の流れにあるような気がしました。もちろん119人の入所者がいるので、そう簡単に「解体」などできないでしょうがピカピカの新施設に入所者をまとめることに成功したら、旧施設はいっきに取り壊されるのではないでしょうか。日本の政策が生んだ施設ですので日本人としていろいろな事を考えさせられました。

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 療養所を歩いていたらひとりの老人が私たち一行に声をかけました。私は「勝手に歩くな。何者だ!」と怒っているのかなと思いました。Um先生は「きちんと管理棟に許可を求めて散策しなさいと注意したのかな」と思ったようでしたが、どちらもそうではなかったようでした。Mさんは私たちをいくつかの建物に連れていってくれました。そこにはこのMさんが造った建物の模型がありました。これは楽生院の姿を再現したものです。ずいぶん苦労して造り上げたものだと思いますが、院のあちこちにMさんの作品がありました。きっと、私たちにその作品を見せたかったのだと思います。もちろん、自分の作品を紹介するだけでなく、療養所のあちこちを案内して下さり、多くの入所者を案内しても下さいました。Um先生が探し求めていた90歳の日本語ペラペラのCさんの所にも連れていって下さいました。今回の療養所訪問の恩人となった気がします。
 Mさん、ありがとうございました!

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ここは、楽生院の火葬場です。強制隔離政策は、故郷に帰ることを許さない政策でした。そして、親族との縁が絶ちきられる政策でした。その象徴がこの火葬場でした。日本の療養所では裁判の影響もあって火葬場や納骨堂などの施設は案内板付きで大切に保存される傾向にありますが、ここでは朽ち果てるままに放っておかれている気がしました。しかし、大切なのは想像力です。ここで、仲間に見守られながら送られた入所者のことをあれこれ考えることが大切なような気がしました。
 闘龍灘さんは「まさに荼毘に付されたという感じですね」と言われました。「荼毘に付す」という言葉が比喩でなく具体的にイメージできた気がしました。火葬場の近くに小さな碑があり「楽生患友火葬遺骨集塚」と書いてありました。同じ漢字文化圏の私たちにとって何の説明もいらない碑でした。Um先生も闘龍灘さんも初めて訪問した場所だったようです。



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 ハンセン病療養所楽生院に行ってきました。日本統治時代に造られたもので、政府はその隔離政策の責任をとって補償もしています。写真はどちらも楽生院の施設です。旧施設と新施設です。園は、施設の老朽化と鉄道工事のため旧施設から新施設に入所者を移したい考えのようでした。ただ、私たちが訪ねた時はまだ多くの人達が旧施設に残っているようでした。日本の療養所は、郊外に広大な敷地を設けて造っていますが、ここは都市の近郊の山の斜面に造られています。移動は少々大変ですが、眺めもよく「遠くにつれてこられた」という感覚は少なかったと思われます。

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ここが政治犯を裁いた第一法廷と呼ばれていた法廷です。ここで多くの政治犯に「共産主義」「国家転覆」などのレッテルが貼られ、拷問や極刑に処されたのです。私は被告席に座ってみました。「どんな思いがするだろう」と思ったからです。Um先生が言いました。「あなたはそうなるかもね」しゃれにならないセリフに私はこう答えました。「私はすぐに偽装転向して出直します。」Um先生も「そう。こんな所で暮らすのは嫌だ。」・・・・・この法廷で裁かれたり弁護士を務めたような人達が台湾の民進党のリーダーとなっていると聞きました。台湾の国会は乱闘騒ぎで有名ですが、その「激しさ」の意味はよくわかる気がしました。「政敵」などという生やさしい言葉では表現できない複雑さと怒りがあるのだと思います。軍事政権の横暴さはこの法廷が海外のジャーナリストに公開されたことによって世界に明らかとなったということです。「公開すること」と「国際世論」の重要性を学んだ気がしました。「戒厳令って日本で起きるかな」と闘龍灘さんに聞きました。「周辺事態法とか・・・」そう言う答えでした。なるほど、やはり今の日本は「危うい」!!!

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 左に見える集団は、この施設に収容されていた人たちの家族、遺族の人達です。たまたまそういうイベントに出くわしました。正面に見えるのがその政治犯を収容していた刑務所の建物です。台湾が民主化されたのは1988年。それまでは戒厳令がしかれており、ここに「政権にとって都合の悪い人間たち」が続々と収容されていたのです。1988年なんてついこないだです。韓国しかり、中国しかり、東アジアは軍事独裁政権ばかりでした。日本がそうならない保障はありません。むしろ、以前よりはその可能性は増しているような気がします。

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